僕は以前、「WEBアニメスタイル」(旧サイト)で『サイボーグ009』についてコラムを二回書いている。
編集長のコラム 第19回「『あ、流れ星』への長い道のり」(02/12/12)
編集長のコラム 第20回「平和の戦士は死なず」(02/12/21)
である。書いた時期は『サイボーグ009』TV第3シリーズの放映が終わった頃だ。第19回「『あ、流れ星』への長い道のり」は「地底帝国ヨミ編」ラストの「あ、流れ星」について書いたものだ。「地底帝国ヨミ編」ラストについては、僕は第19回で以下のかたちで紹介している。
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そのクライマックス。宇宙を飛ぶ魔神像の中で主人公の009は、宿敵・黒い幽霊団(ブラックゴーストと読む)の首領を倒すが、魔神像も爆発。002が助けに来たものの、002も重力圏からの脱出にエネルギーをほとんど使ってしまい、2人は地球に落ちていく。002が009に言う、「ジョー、君はどこに落ちたい?」。009達は誰も知らぬところで戦い、そして死んでいくのか。だが、地上で、落下していく2人を見上げている姉弟がいた。姉弟はサイボーグ戦士達とも黒い幽霊団とも関係のない市民であり、民家の物干し台で星空を眺めていたのだ。そこで問題の「あ、流れ星」というセリフが出てくる(実際のセリフは、もう少し長い)。姉弟には、大気圏に落ちて燃え尽きていく2人が、流星に見えたのだ。そして、姉は星に、世界に戦争がなくなり平和になる事を祈るのだった、というところで「地底帝国ヨミ編」は終わる。
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そして、その第19回のラストは以下のようなもので、第20回に続けている。
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ところで、TV第3シリーズの「地底帝国ヨミ編」のラストにおける、009と黒い幽霊団と首領の善悪問答を聞いていて、僕は、TV第1シリーズの最終回「平和の戦士は死なず」を思い出してしまった。あれ、「平和の戦士は死なず」って思っていたよりも「地底帝国ヨミ編」のラストと重なるなあ。と言うよりも「地底帝国ヨミ編」のラストだけを取り出して、膨らませたものと考えられるんじゃないか?
「平和の戦士は死なず」は大きなテーマをストレートに描いた、TVアニメ史に残る傑作である。と言うわけで、次回は『009』TV第1シリーズ最終話について書きたいと思う。
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第20回「平和の戦士は死なず」では『009』TV第1シリーズの最終回「平和の戦士は死なず」について、あるいはそれと原作、先行して作られた劇場版2作との関係について書いた。以下にその一部を抜粋する。
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このエピソードが、リアルな核戦争をモチーフにしている事にも驚いたが、当時、僕が最も衝撃を受けたのが、悪魔の人形の存在だった。人間の心の悪の部分が戦争を起こす、というのは、まあ当たり前の話だが、その抽象的な「悪」に、人形という実体を与えて登場させたわけだ。そして、009はそれと戦う。正に抽象的なドラマなのである。アニメとはこんな高度なドラマを展開する事ができるのか、と感銘を受けた。
009が宇宙ステーションに突っ込もうとした時、人形は009に、自分を倒しても悪の根が絶える事はないが、お前はここで惨めに死んでいくだけだと言う。だが、009は自分が死んでもサイボーグの仲間がいる、地球人類50億がいると、力強く応える。そして、宇宙ステーションの爆発の後、地上に落下してくる009を救うために、002が猛スピードで救出に向かう、とドラマは展開。このあたりは随分とニュアンスが違うが、原作「地底帝国ヨミ編」クライマックスを使っている。すなわち、原作の黒い幽霊団の首領が、「平和の戦士は死なず」では人形になっているのだ。前回も書いたとおり、原作のその部分でも黒い幽霊団は人の心の悪が生んだものであり、滅ぶ事はないと語られていた。それは具体的な事はよくわからない。今の黒い幽霊団が滅んでも、別の黒い幽霊団のような組織が生まれるだろうという意味ともとれる。それに対して「平和の戦士は死なず」では、敵を本当に滅びる事のない抽象的な「悪そのもの」にした。「地底帝国ヨミ編」で描かれたテーマのひとつを取り上げて、より発展させているのだ。
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先日の會川さんとの対談が終わった後、辻真先さんにうかがったところ、辻さんが「地底帝国ヨミ編」ラストを意識して「平和の戦士は死なず」の脚本を書いたのは間違いないそうだ。もっと具体的に言えば、辻さんは例の「ジョー、君はどこに落ちたい?」から、夜空を見上げる姉弟までのラストシーンに感動して、その映像化として「平和の戦士は死なず」を書いたのだそうだ(ただし、少なくとも「平和の戦士は死なず」の完成作品には、姉弟は登場しない)。また、「平和の戦士は死なず」は「週刊漫画サンデー」に連載していた小松左京の「エスパイ」に影響されて書いたものではないか、とのこと。そして、人形を「人の心の悪の部分」の象徴とするコンセプトについては、演出の芹川有吾との打ち合わせから生まれたものであるそうだ。これも納得できる話だ。劇場版2作と「平和の戦士は死なず」の関係については、僕は、コラムで以下のように書いている。
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それで改めて劇場第1作『サイボーグ009』と劇場第2作『怪獣戦争』(いずれも監督は芹川有吾)を観返してみて、009の言った「いつか」というのが、その時の事だったと確信した。最初の劇場版『サイボーグ009』のラストで黒い幽霊団の首領の正体が、コンピュータであった事が判明する(ちなみに、コンピュータの上に乗っているものが脳みそに見えなくもない)。そのコンピュータは、自分は黒い幽霊団の首領であるのと同時に、大昔から戦争を起こさせてきた存在であると語る。そして、自分を作り育てたのは人間の中にある醜い欲だ、と。調べてみると「東映動画長編アニメ大全集」(徳間書店)の中で、この作品の脚本を執筆(芹川有吾と共同)した飯島敬さんは「ブラック・ゴーストのほんとうの首領は、コンピューターだったわけですが、あれはいわば人間の欲望とか野心を、現代的に象徴化したものなんです」とコメントしている。このあたりの抽象化については、前後して作られた同じ東映の『太陽の王子ホルスの大冒険』や『空飛ぶゆうれい船』と比べてみるのも面白い。
『怪獣戦争』ではラストに、敵のボスとして魔神像(手が動いてるからロボットなのかもしれない)が登場する。この時、魔神像は009に「また会ったな」と言うのだ。魔神像は殺し合いや憎しみ、醜い欲があるところに、自分はいつでも生まれてくると語る。映像で魔神像に前作のコンピュータをダブらせている事から、魔神像とコンピュータの正体が同じであると演出的に暗示されている。
そのように009は過去に2度、人間の心が作った悪魔と対峙しており、3度目が「平和の戦士は死なず」だったのだ。テーマ的に前2本の劇場作品でやや未消化だった部分を、描き切ったという事になる。劇場版2本から続けて「平和の戦士は死なず」を観ると「いつかのあいつだ!」も、決して唐突なセリフではない。
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劇場版2作と「平和の戦士は死なず」は、芹川有吾の中では連続した物語だったのだろう。残された謎は、そのテーマについて、原作がアニメ版の影響を受けているのではないのか、という点だ。もう一度、コラムから抜粋する。
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さらに話は余談めく。ちょっと前後関係を整理しておこう。黒い幽霊団の首領(あるいは戦争を起こす悪魔)の正体が、人の心が生みだしたものであるという設定はいつ生まれたのか。劇場第1作の公開が1966年の7月で、それと前後して「地底帝国ヨミ編」の連載が始まっている。「ヨミ編」の完結は翌67年の春。つまり、黒い幽霊団の首領の正体に関しては、原作よりもアニメの劇場第1作の方が先なのだ。孫引きになるが、昨年に発売された「サイボーグ009 コンプリートブック」(メディアファクトリー)に過去の「サイボーグ009」ファンクラブ会報に掲載された芹川有吾のインタビューが引用されている。それによれば劇場第1作で、黒い幽霊団首領の正体を人間の欲望が姿を変えたコンピュータにする事は、芹川さんと飯島敬さんによるディスカッションの中で出てきたものであり、その時に石森先生にも相談しているのだという。ここから先は想像だが、石森先生は劇場第1作のアイデアを活かし、より煮詰めたかたちにして「ヨミ編」のラストで使用したのではないか。そして、さらにそれを下敷きにして「平和の戦士は死なず」が作られたのだろう。
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念のため、辻さんに、劇場版と原作との関係についてうかがったが、それについてはご存知ではなかった(劇場版の脚本に辻さんは参加していない)。少なくとも「平和の戦士は死なず」については石森先生と打ち合わせはしていないそうだ。これについても機会があったら解明したい。